弘法大師と東寺-3

第72回

ドラゴン鑑定

今回は如来ゾーン&菩薩ゾーンを書いてみます。

-3如来ゾーンには五体の如来さま(五智如来)  中央に大日如来坐像『密教界における最高の仏さま・密教界の天照大御神様』 重要文化財 1497年作 像高:285cm

講堂のご本尊大日如来大日如来さまを正面に見て、四如来 (北東に阿しゅく如来  像高:144cm)  (北西に不空成就如来  像高:133cm)(南東に宝生如来  像高:143cm)   (南西に阿弥陀如来 像高:139cm) の大日如来を中心に四体安置されております。

全て重要文化財に指定されております。

 

菩薩さまに比べて如来像はすくなくなっており、悟りを悟った人に比べ修行の人が多いので菩薩さまの数が多いと思います。(菩薩さまは悟りを目指している方と言います)

 

五智如来で一番人気は何と言っても阿弥陀如来さまです。西方の極楽浄土の教主で、生あるものすべてを救う仏、念仏により浄土に往生できる(阿弥陀信仰)

私は仏像、寺院が好きなだけで有り、申し訳ありませんが宗教のことは我が家の宗教も父がなくなって初めて知ったくらいですから書きません。

 

大日如来さまは、阿弥陀如来さまに比べて数が少なくなります。この辺のことは私にはよくわかりませんが、確かに東北の寺院をまわっても大日如来さまはあまり目にいたしませんでした。

しかし大日如来は宇宙そのもの、宇宙のすべて森羅万象であるとされております。森羅万象とは、すなわち宇宙に存在する一切のものをいうそうです。

 

森羅万象良く聞きますが分かるような分からないような、私のような凡人には到底理解はできないのかもしれません。

菩薩ゾーンには五体の菩薩さま

中央に金剛波羅蜜菩薩(像高:197cm)が安置されされ周囲には  (北東に金剛薩た(さつた)菩薩  像高:95cm)  (南東に金剛宝菩薩  像高:93cm)  (南西に金剛法菩薩 像高:93cm)(北西に金剛業菩薩 像高:95cm)金剛波羅蜜菩薩を中心に四体安置されております。

次回は明王ゾーンと天部ゾーン

さいごまでおよみいただきましてありがとうございました

にしおか まさる

 

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弘法大師と東寺-2

第71回

ドラゴン鑑定

 

東寺・・・講堂・・・立体曼陀羅(21体仏像)

 

曼陀羅金剛界曼陀羅胎蔵界曼荼羅両方合わせて両界曼陀羅と言います。東寺の講堂内一杯に立体曼陀羅が配置されこれだけの仏像を一度に見ることはなかなか出来ません。

 

空海は804年(30歳)密教を学ぶため唐に渡り、わずか2年で恵果もとで密教を(唐の青龍寺)恵果を生涯の師匠として尊敬したと言われております。

 

空海は帰国時に両界曼陀羅図を持ち帰り この図をもとに立体曼陀羅を作ったのではないのでしょうか?【密教とは言葉では教えることができず、絵で教えなさいと教えお受けたとも言います】

 

密教は、大日如来が全ての仏の中で最高位で有り、人・草木・動物鳥類に至るまで、宇宙にある物は全てが仏であるということだそうです。

そこまでを理解することは私にはとても無理でしょう!

 

講堂に着いた時には時間も遅くうすぐらい講堂が一層暗く感じ、とにかく見ようとする意志が強いのか、写真、映像などで見ていたこともあり大日如来さま・不動明王さま(他の19体の仏像も)実物の方が少し埃がかかっているのか?

 

写真、映像は照明を使っての撮影ですから当然違って当たり前かもしれません。

 

しかし、存在感は全く別です。講堂の中は大日如来坐像を中心に日本最古と言われております不動明王さま威厳があるという言葉はここからでたのかとも思うくらいです。

 

不動明王さまは他の寺院と比べてもお顔は違った感じがあります。空海自らノミを入れたとも書いた本もあります)しかし確かに仏像一体創り出すにもある程度の年月はかかります。

 

弘法大師空海)没835年といわれこの不動明王さまはは839年に造られたとあります。アレッと思いますが、これだけの不動明王さまは5年10年かかって造られたとしてもおかしくありません。

 

夢を壊すことは止めて素直に受け止めた方がロマンがあって良いと思います。839年立体曼陀羅の開眼供養。

 

講堂の中は、(幅26m・ 奥行7m)如来ゾーン・菩薩ゾーン・明王ゾーン・天部ゾーン】四つのゾーンの中に21体の仏像が立体曼陀羅として配置されております。

 

続きは次回にお届けいたします

 

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にしおかまさる

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弘法大師と東寺-1

第70回

 

ドラゴン鑑定

弘法大師であるなら高野山とも思いましたがここではあえて東寺で行きたいと思います。

京都は高校の修学旅行(平等院鳳凰堂清水寺金閣寺そこしか思いだせません、東寺には来ていないと思います。奈良は(東大寺)しか思いだせません。中学の修学旅行と同じで寺院には全く興味はありませんでした。

 

北海道から奈良県まで遠くもあり、11泊12日と長い楽しい修学旅行でした。新幹線もなく函館~青森は青函連絡船です。青函連絡船は乗船名簿に名前を記入して乗りますがこの手続きはきっと旅行社が行ったと思います

 

教王護国寺 通称=東寺】正式寺号は教王護国寺    

 

東寺を訪れたのは、高台寺の拝観後タクシーで、日中の温かった日差しも東寺に着いた時には寒くコートを着ての東寺拝観でした。

講堂を目指すも何も、五重塔が大きく(高さ54.8Ⅿ 、基盤からですと57m) 講堂は五重塔の目の前ですから分かりやすくさすが京都駅から見えるだけのことはあり相輪は見上げなければと一人満足です。

一口知識

五重塔地震に強いそうです、その理由は何でも(積み上げ構造)だそうです。積み上げ構造とは鉛筆のキャップを重ねた形だそうです。

講堂を出たときには五重塔が数か所かライトアップされとても幻想的でした。

 

東寺(空海真言密教=曼荼羅曼陀羅のおおよその意味は理解しておりましたが、講堂の中に入り【21体の立体曼陀羅】を見上げた時には壮観のただ一言です。

 

自分なりに本、写真、映像等を見ておりましたのでそれなりの想像はしておりました。見て初めて立体曼陀羅のすごさが分かりました。

 

講堂内部を正面に見て私は右の入り口から入り左側の出口に向かったっわけですが、時間帯が遅かったこともあり講堂内は10人くらいの拝観者しかおらず、お陰様でゆっくりと三回程行き来いたし最初は全面の方に目が行き、二度目は中央と後ろの方にも目を向け一言の声すらでなかったと思います。

 

三度目には又入り口からゆっくりと時間の許す範囲内で見ることができました。

 

最後に、四度目はしつかり大日如来坐像、不動明王坐像)のまえでしばらく見入ってしまいました。

講堂を出たなら五重塔も見たいと思っておりましたので、時間を考えますとこれが精一杯かと思われ、残りは次の日に楽しみは撮っておきましょう!

 

この続きは次回にお届けいたします。

 

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高台寺は秀吉と北政所の思い出の詰まった寺院-3

第69回

ドラゴン鑑定

 

高台寺には、秀吉亡き後の権力者となった徳川家康も訪れ、北の政所を丁重に扱い家臣を普請担当させ中でも堀直政のはたらきが大きく、高台寺開山堂には堀直政の木像が安置されております。

 

しかし、徳川家康もタヌキと言われる人、戦にそなえ北の政所を味方につけ大阪夏の陣での(1615年)北の政所の口添えなどで亡き秀吉の家臣を徳川に味方につけ辛くも勝利、大阪城が落城したのを見た北の政所は高台寺で涙し、豊臣家滅亡後には、徳川家康のまさかと思う豊国神社の廟堂を破却してしまう仕打ちに合い北の政所は病になり、秀吉亡き後1624年に亡くなります。(享年77歳)他の説もあります。

 

実は、この大阪夏の陣で活躍された秀吉家臣はみな外様大名であり、家康亡き後 福島正則は些細なことから徳川秀忠によって現広島領地50万石を越後魚沼郡に領地替えを命ぜられ4万2千石になり、外様大名の中にも上手に立ふるまうものや幕府からいらぬ出費がかさむ今でいう公共事業をおおせ使い、幕府は外様に対して謀反など起こさせぬように常にお金を使わせ目を配っていたようです。

 

高台寺にもどり、ねねは秀吉との思い出を大切にされ伏見城から庫裏(庫裡)玄関からはという衝立があります(この夢は秀吉の辞世の句の一文字をいただいたのかと思いました)

方丈は当時伏見城から移築されたといいます。

(傘亭・時雨亭も伏見城から移築)

庫裏からは臥龍廊が見え、ここは当時入ることはできませんでした。屋根の姿が龍の背中に似ていることで臥龍廊とつけれこの臥龍廊の下というのでしょう開山堂その上には霊屋(おたまや)があり近くに傘亭 時雨亭などがあったと思いました。

 

霊屋にはねねの宝形造りの廟堂(北の政所・寧々の墓所、説明によります豊国神社の廟堂に似ているとの事です)須弥壇正面右側に豊臣秀吉木像小さい厨子をはさんで左側に北の政所木像が、北の政所木像2m下には北の政所が眠られているそうです。

 

この蒔絵は桃山時代の蒔絵で有りましてねねさんの須弥壇には高台寺蒔絵として有名な(松・竹・楽器・花筏(はないかだ))と言われる見事な蒔絵で有ります。

 

このお二人の木像を見ただけでも充分満足の出来た高台寺でした。

今迄見てきた東北の寺院とは何が違うかといいますと高台寺は豊臣家の北の政所(ねね)の心の奥深さを教えられた寺院でした。

 

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にしおかまさる

 

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高台寺は秀吉と&北の政所の思い出の詰まった寺院-2

第68回

ドラゴン鑑定

 

高台寺のその日は11月も終わろうとしておりましたがとても暖かく、寺院を訪れた多くの方でにぎわっており、休憩所には紅葉された落ち葉 中に入りお茶をいただきながら何気なく戦国時代(高台寺伏見城=大阪城)を考えてしまい、時の関白秀吉は伏見の城で何を考え、北の政所は何を思ってともに伏見の城にいたのかを考え見ますと、天下人となりわずか8年後1598年9月18日に伏見のお城で亡くなりますが、その数日前から、秀吉は大老・奉行などを枕元に呼び自分の亡きあとは嫡男秀頼を頼むと懇願され亡くなります。

 

秀吉も、自分の亡きあとは 大老の中でもとくに 秀吉自身もっとも恐れ警戒していた徳川家康に秀頼公のいくすえを何度も何度も秀頼を頼むと懇願しております。

天下人と言っても、最も恐れた徳川家康を開拓困難と言われた江戸に体のよい追放です。

 

徳川家康のように完全なる天下人とはいえず、戦国時代が再び始まり秀吉亡くなりわずか2年後1600年には関ヶ原の合戦が、豊臣家1615年に大阪夏の陣で滅ぶ。

 

秀吉辞世の句 『露と落ち 露と消えにし わが身かな 浪速のことは 夢のまた夢』

 

文献によりますと 露のように世に生まれ 露のように消えていく 大阪城で過ごした日々は夢の中で 夢を見ているようなことだった・・・という意味だそうです。

 

天下人となり秀頼が誕生してからは人が変わった様に、自分が秀次に譲った関白職、その後の残忍な仕打ち。秀次のものは全て破却してしまう所行、足りずに女子供まで惨殺

但しこのことは多くの文献で見る事が出来  真実は?

 

秀吉も(豊臣家は徳川家康)によって滅びると感じていたと思います。

秀吉亡き後、(北の政所も天下はいずれ徳川家康に移行)すると悟っていたと思われます。夫亡きあとは伏見城をでて、京都に移り秀吉の菩提を弔うため高台寺をその後(ねねは・高台院)とも呼ばれます。

 

高台寺から大阪城が落ち赤く燃え上がる炎を北の政所は見ていたそうで涙し、高台寺からは 豊国神社の方角に向っていつも合掌していたと寺院の方が説明されておりました。

しかし自分たち夫婦には実子ががなく秀吉亡き後も加藤清正(名城熊本城改築され一大名のお城では日本一で有り・銀杏城ともいう)福島正則らが再三高台寺に訪れ、西方か(石田三成)東方(東川家康)につくかを相談もされ母親のように慕ったそうです。

次回に続きを書いてみたいと思います

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ドラゴン鑑定

 

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